世の中の構造的考察|進路を選ぶ前の君へ

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人には向き、不向きがある

世の中には色々なタイプの人がいる

人間には色々なタイプの人がいる。運動が得意な人、勉強が得意な人、音楽が得意な人。また身体が大きく力が強い人もいれば、小柄でスタミナがある人もいる。人間の特性というのは、本当に多彩で、人それぞれだ。

人間の先天的な要素は、変えられないことも多い

これはある意味残酷な現実かもしれないが、もって生まれたものは変えることはできない。たとえば目指したい分野があって、それに向かって努力をしても、その分野についての才能がなければ、芽が出ることは難しい可能性が高い。

努力で背が伸びるか?

これは身体的な要素の方がわかりやすいと思う。君は努力して、身長が伸びると思うだろうか?もちろん適切な栄養と運動は、その人が持っている身長のポテンシャルを最大限発揮することには役立つだろう。しかし両親の身長が低く、親戚にも小柄な人しかいない場合、その人がどんなに努力をしても、身長を一定以上伸ばすことは難しい。遺伝的に規定されたものを、後天的に変えることは、現在の医学でも不可能なことだ。

目に見えない部分も、先天的な要素が関与すると私は思う

身長なら目に見えてわかりやすいが、能力的なことは、目に見えないことがほとんどだ。そしてこちらについても、身長と同じくらい、先天的な要素が関連すると、私は考えている。

たとえばあまり勉強をしていなくても、要領よくテストをクリアできる人もいる一方で、かなり頑張っているにもかかわらず、あまり点数が取れないひともいる。これは要領を工夫してどうにかなることもあるが、本当に勉強が苦手で、どうにもしがたい場合も、実はあるのだ。

頑張ればできる?

たしかに一定までは、努力でどうにかなる面もあることは否定しない。20個の単純な漢字テストだったら、一生懸命覚えれば、勉強が苦手な場合も、クリアできるかもしれない。しかし一定以上に複雑な事象になると、やはり能力の差が出てくることは、否定しがたい事実だ。A君は1時間で理解できることが、B君は10時間かかっても半分も理解できない場合、その後の学力に決定的な差がつくことは明白だ。

自分に向いている方向の方が、ラクに生きれる

しかし一方でB君はものすごく運動が得意で、身体能力が高いかもしれない。その場合は、勉強はもうそこそこで見切りをつけて、自分の才能が活かせる、スポーツの道に進んだほうが、B君は成功できる可能性が高い。その方がきっとB君は人生を楽しむことができるだろう。

難しいのは、進みたい方向と、才能が一致するか?

しかしここで難しい問題がある。それは、自分が進みたい分野と、自分の才能がある分野が一致するとは限らないことだ。B君はスポーツの道に進めば、それなりの功績を残せる可能性が高い。しかしB君はスポーツの道には興味がなく、研究者になることを夢見ているとする。その場合、どうするか、非常に難しい問題だ。

研究者の道を選んだ場合、B君の人生はかなり過酷なことが予想される。才能がない分野で戦い続けることは険しい道だ。成果が出ない場合は、社会的にも恵まれた環境になるとは思えない。それでも自分の信じる道を行くのも、もちろん人生だが、客観的には辛い人生のように思える。

研究者の道は才能が無いと悟り、勝てそうなスポーツ道に進んだ場合、その後の努力や選んだスポーツにもよるが、それなりの実績を残せる可能性がある。その場合、引退後も指導者やコンサルタントとして仕事をして、社会的にも恵まれた人生を送ることができるかもしれない。

私の経験

私の年齢くらいになると、多くの人がこのようなことに、経験的に気づくのだと思う。40年近く生きていると、人には向き不向きがあることが、否定しがたい事実と悟る。これは自分がある程度の年齢になり、人生の選択肢も狭まってきて、また多少の人生経験を積むことで、だんだん腑に落ちてくることなのかもしれない。

私も10代の頃は努力が全てで、才能は言い訳だと思っていた。だから自分が出来ないことや、苦手なことがあれば、克服するために頑張らなければならないと、切羽詰まって、自分に発破をかけて生きていた。今思うとかなりつらい考え方だ。

しかし一方で同時期の10代に、才能や能力を感じる出来事があった。中学生の頃、結構激しいことで有名な進学塾に通っていたときのこと。どうも自分よりも勉強している人が、自分より成績が振るわなかったり、逆に自分よりあまり勉強をしているようには思えない人も、自分より成績が良かったりした。もちろん表面的にしかみていないので、本当のところは知らないが、これはどういうことなのかと、思うことがしばしばあった。

まだその時は中学生で、疑問に思っても、言語化できるレベルではなく、思念の底に溜まっているもやもやだったが、そのことを言語化して、解釈できたのは、だいぶ大人になってからだ。

その後も、高校、大学と色々な人に出会ったが、やはり人間には、努力だけでなく、先天的な要素がかなり強く影響するのだと感じることが多々あった。そして社会に出るとそれは確信に変わった。

才能を見極めるには?

才能がある道に行く方が、人生は楽しいという話をしたが、そもそも才能がある分野はどのように見つけるのかという問題がある。これはすごく難しい。このようなことを偉そうに言っている私だって自分の才能を見極めているとは言い難い。

一般的には、色々なことを試してみることを勧める。そのために学校があって、色々な経験をすることが、社会に出るまでに大事だと言われる。たしかにその側面は否定しない。しかし学校で才能を見極めて、それをもって進路を選べるのかと言われたら、多分出来ないと私は思う。

じゃあどうすればいいかと言う話だが、君が好きなことを、好きなようにやってみるのが一番よいのではないかと、私は思う。そして合わないと思ったら、あっさりやめて、次に移ればいいと思う。

才能がある分野のヒントの一つは、君がやっていて自然なこと、ラクなこと、他の人が苦労していても君にはあっさりできること、やっているとなんとなく楽しいこと、などがあると思う。まずはそれが仕事になるかとか、難しいことは置いといて。純粋に君が楽しめることをやりたいようにやることが、才能がある分野を見つける道になると思う。

才能を仕事に活かすには?

これはまた難しい話だ。才能がある分野がすでに社会的に確立されたものならそれに乗るだけだが、そうでない場合はどうするかという話になる。

たとえば数学がすごい得意なら、研究者になる、外資系企業で数学を使う職業に就くという、すでに確立された方法がある。これならただ先人のレールに乗ればいいから話は早い。

しかしゲームが得意だった場合はどうか。今はプロゲーマーという職業があるから、上記と同じレールに乗れるかもしれないが、昔はなかった。プロゲーマーがいない時代に、ゲームが得意な人のように、いま君の時代に、君が得意なことが社会的に職業として確立されていない可能性がある。その場合、結構難しいことになる。

未知の分野の場合は?

その場合、一つは今ある職業で、才能が活かせるものを選ぶということだ。自分の才能ドンピシャではないけど、近い分野であれば、他の人よりも抜きん出られる可能性は高い。これは現実的な方法だ。

もう一つは昔のゲームが得意な人が、プロゲーマーの道を切り開いたように、君が道を作ってしまう方法がある。これはかなり大変かもしれないが、成功すれば確実にその分野の第一人者になり、名を残すことができるだろう。

私の場合は?

これはなんとも難しい話だが、私も自分の才能を見極めて職業についたわけではないから、なんとも言えない。しかし自分がやりたいと思う分野を選んで、自分なりに頑張ってきたというのはあると思う。参考にならずすまぬ。

また才能と同時に、自分の特性を見極めることも大切だと思う。私は自分がサラリーマンになれないことは、かなり早い時点で分かっていた。そのため自分である程度自由に動ける職業に就くほうが、自分にとってストレスがないことを理解していた。そのためそのような方向で生きていけるように、社会にでてからもスキルを身につけるように努力した。

まとめ

実は君に向けたこのサイトの記事は、軽く読めるように、一記事を長くならないように心がけていたのだが、ちょっと長くなってしまった。今回のテーマも、かなり大きいテーマなのでまた切り口を変えて、一緒に考えてみたい。

今回君に伝えたかったことは、人には向き不向きがあるのは、おそらく事実であるということ。自分の才能がある分野で戦った方が、勝てる可能性が高く、人生は充実したものになる可能性が高いこと。才能を見極めるには、君が好きなことや、やりたいことを、自分のスタイルで工夫してやってみること。ということかな。


困ったら古典を読んでみる

古典にヒントがあるかも

生きていると、物事がなんだか上手くいかないこともある。どうすればよいか、解決の糸口が見つからないとき、一つおすすめしたいのが、昔の作品を読んでみることだ。できればもう著者が亡くなっているくらい、昔の作品が良い。ジャンルはなんでもいい、興味がありそうなものや、有名どころがいいだろう。

私の経験

私が高校生のときだったか。何気なく古い作品を読んでいたときのこと。もう100年以上も昔のことなのに、現代とは全く科学技術も、文明も違うのに、人間の悩みは昔から大きくは変わらないことに驚いた。そしてなぜか、妙に安心したのだ。昔の偉い人でも、自分が悩むようなことで、悩んでいるのだと知って。

人間は急には変われない

よくよく考えてみると、100年前から人間を取り巻く環境は、特に科学技術の側面では大きく変わったが、人間そのものは、そこまで変わっていない。というよりそこまで早く適応することが難しい。人体の構造も、人間の心理構造も、数百年の単位ではほとんど変わらないだろう。ゆえに人間が悩み、苦しむようなことも、昔から本質的には変わらない面も多いのだ。

古典はいい作品が多い

昔の作品で、現在も生き残って、語り継がれているということには、それなりの理由がある。時代を超えて生き残っている作品は、優れたものである可能性が高い。そういう意味でも古典はオススメだ。

難しいものでなくていい

しかしあまりに古いと、さすがに読むのに苦労するし、何を言っているのかわからないこともある。そういう場合は、現代語訳でも解説書でもいい。原著にこだわる必要はなく、要するにエッセンスを吸収できれば何でもいいのだ。

またトルストイのように難しすぎる作品をいきなり読もうとすると、イヤになるかもしれないので、初めは気楽に読めるものがいいかもしれない。

迷ったら夏目漱石

私がオススメするのは夏目漱石の作品で、100年以上前でそこそこ古いし、内容も面白いし、難しすぎないので、いいのではないかと思う。

何百年前の作品でも、昔はよかったという描写がある

私が驚いたのは、何の作品かは忘れたが、現代よりも数百年前の作品でも、その中に「昔はよかったなあ」という描写があったことだ。私としては、じゅうぶん昔じゃん、と思ったのだが、その時を生きている人にとってはその時が基準だからね。その描写を読んだときも、少し心がラクになった。人間はいつの時代も、昔を懐かしむものなのだと、本質的には変わらないものなのだと。

なにか迷うときは古典を読もう

本を読んで問題が解決できるとは限らないけど、それでも私のように心が軽くなったり、なにかが自分の中で腑に落ちるときもある。迷ったら古典を手に取ってみるといいかもしれない。


本当にやりたいことができるのはお金を持ってからなのか?

本当にやりたいことができるのはお金を持ってからなのか?

やりたいことと、生活のはざまで

君が進路を選ぶ際に、目指す目標によっては、やりたいことを追いかけるべきか迷うことがあるかもしれない。特に一般的には難しいとされる目標や、生計を立てることが一部の人にしかできない職業、または潰しがききにくい分野などでは迷うこともあると思う。大人になると、自分で生計を立てなくてはならないから、この問題に迷う人は多いと思う。

例えば君が医者や、弁護士や、会計士になりたいと思った場合、そこまで悩むことはないと思う。たしかにこれらの職業に就くには、多くの努力が必要だが、適切な努力をすれば、勝てる可能性もある。また一度資格を取得すれば、またそれほどの能力があれば、おそらく生涯生計を自力で立てられる可能性が高い。社会的な地位もあるので、周りの人も応援してくれるだろう。

しかし歌手や、プロスポーツ選手や、芸術家など、目指してもほんの一部の人しか夢を叶えられず、また生計を立てることが難しいとされる分野だったらどうだろうか?子どものときは将来の夢として目標にできるかもしれない。しかしある程度の年齢になり、いざ生活が差し迫ったときに、迷いが生じることはある意味普通だと思う。夢を目標を追いかけるべきなのか、それとも堅実に生活ができる道を探すべきなのかと。

そこまで特殊な職業でなくても、会社から独立しようと思ったときなどは、自分の目標と安定との間で揺れることはあるだろう。そんなときにはどうするのが良いのだろうか?一緒に考えていきたい。

ある研究の答えは?

これは又聞きの知識なので、参考程度にして欲しいが、1960年代のアメリカで、スラリープロトニックさんという人が行った研究を紹介してみる。この研究では学生に、「今すぐ夢を追いかけるか?」それとも、「先に安定した職業についてから夢を追いかけるか?」という質問をしたらしい。その際は、「今すぐ夢を追いかける」と答えた学生が20%、「先に安定した職業についてから夢を追いかける」と答えた学生が80%と、自由の国のイメージのアメリカでも、意外に堅実な人が多い結果だった。

その後、20年後にどうなったかの追跡調査が行われた。すると「今すぐ夢を追いかける」と答えた学生のうち、なんと約40%が大富豪になっていた。一方で「先に安定した職業についてから夢を追いかける」と答えた学生では、大富豪になれたのはたった一人で、0.08%という低い確率だった。

もちろんこれは時代背景も国も違うし、一つの研究結果なので、盲信するのは危険かもしれない。でもこの実例をみて、君はどう思うだろうか?

参考資料:【再放送】【実例紹介】「夢」をとるか「安定」をとるか、お金持ちになれるのはどっち?【人生論】:(アニメ動画)第331回

本当にやりたいことなら、追いかければいいのでは?

ここからは私の個人的な見解だが、やはりやりたことがあるのなら、好きなだけやればいいのではないかと思うのだ。本当はやりたくないことを嫌々やって生きるよりも、君がやりたいことを好きなようにやって生きるほうが、人生楽しいのではないかと。

やりたいことをやっていれば、その時点で一つ勝ちだ。そのうえで経済的にも成功すれば、大勝ちだ。しかしやりたくない事をやって、なんとか生活できたとしても、それでいいのかという思いが残るのではないか。最悪なのは、生活のために嫌々安定した道を選んだにもかかわらず、安定さえも得られないようなパターンだ。これでは一体なんのために生きているのか分からない。

好きなことをやっている人間のほうが、最終的に勝てるように思う

自分の好きなことを、自分の好きなようにやるということは、多くの場合、自分で起業するか、フリーランスのような立場になるのだと思う。サラリーマンではあまりに好き勝手なことはできないから、どこかで自分が責任をもった立場になることになる。独立するとどうしても安定性は失いやすく、いいときもあれば、思うようにいかないときもあると思う。でも自分が好きなことを突き詰めている人間は、最終的には経済的にも成功するように思うのだ。これには根拠はない。私の個人的な経験則だ。

ひとつ例を挙げてみる。たとえば服を買いに行って、服のことが心から好きな人が、熱意をもって作った服を紹介してくれた場合と、本当は他の仕事に就きたかったのに、仕方なく服を売っている人と、どちらの人に良い印象をもつだろうか?君はその仕事が好きでやっている人と、仕方なくやっている人がいた場合、どちらの人に対応してもらいたいと思うだろうか?おそらく好きでやっている人だと思う。結局熱意を持ってやっている人には敵わない。こういう人が成功するのは時間の問題だと思う。

私は君の夢、目標を応援したい

私は君がやりたいことがあるのなら、好きなようにやったら良いと思う。君の夢や目標が何であれ、応援し、見守れる父親でありたいと思う。私はそれが親としてできる、務めなのだと思う。

他の記事にもあるが、人生は思ったより短い。人間の一生はせいぜい3万日しかない。しかもその中で本当に自分が好きなように動けるのなんて、半分もないのではないか。そう思うとやりたくないことをやっている暇など、一日もないのだと思う。

私の個人的な実例

私にも振り返ると人生の帰路はいくつかあって、振り返ると自分がやりたいようにやって生きてきたと思う。いま振り返ると、よくあんなリスクを取れたなあと思うこともあるが、それが若さというものかもしれない。私は性格的に、自分が嫌なことは続けられない人間だから、自分の好き勝手生きて、それでいいことも、わるいこともあった。でもすべて自分で決断して、すべて自分の責任だと思って生きてきたから、私はそれで良かったと思っている。

蛇足だが、子どもの私にもすべて自分で選択させ、すべて自分で責任を引き受けるように教育した私の両親は立派だと思う。普通はここまでできない。子どもでも、ある意味私を子ども扱いしなかった教育は、私に強烈な責任感を芽生えさせることになった。

少し今回のテーマとはズレてしまうかもしれないが、選択という意味で、ひとつ私の実例を挙げると、私は大学に行くときに一つの転換点があった。当時の私はエスカレーター式の付属高校に通っていたので、学部を選ばなければ大学受験をせずに、世間的にはそこそこ名のしれた大学に進学できた。しかし私は自分が希望する学部に行くために、内部進学を辞退して大学受験をした。そのとき大学受験をしたのはクラスで私たった一人だった。私の学校では、自分が行きたい学部に行けなくても、進学できる学部に進学する、それが普通の流れだった。その当時の私は、完全に異端の存在だった。

私としては頑張ったが、人生はなかなかうまくいかないもので、その年は大学に受からなかった。その後、予備校に通うもなかなか自分のペースを掴めず、結局3度目の受験でやっと希望の学部に進学することができたが、同級生と比べて2年間遅れをとり、その間、社会的な所属もなく彷徨うことになった。

大学に受かるまでの間、すべて自分の決断、すべて自分の責任とはいえ、その当時はやはり辛かった。誰かに言われてやったことではないので、後悔は全く無かったが、正直生きていくこともきつかった。しかも勉強を頑張って続けても、受かる保証はどこにもない。どん底というか、光が見えない時間が2年間続いた。10代の2年間はかなり大きい。最後の方は気がおかしくなって、人相も変わっていた。あまりに思いつめているように見えたのだろう。警察官に声をかけられたこともあった。

いま振り返れば、自分の信念を突き通して良かったと思っている。当時の私には、諦めて他の学部に妥協する選択肢は、思い浮かぶことすら無かったが、万が一挑戦しなければ、一生後悔したことだろうと思う。おかげで散々苦しい目にあったが、まあそれも人生かなと。

その当時、高校3年生の頃、強烈に思っていたことがあって、それは今でも覚えている。それは、「この選択で、俺はこのあと2−3年かなり苦労するだろう。しかし後々に、かならず今の選択を正しいと思えるときが来る。だから頑張ろう。」という思いだった。いま振り返ると、その当時の苦労のお陰で、生計を立てることができているので、過去の選択は正しかったと思っている。

もちろん無理をさせたいわけではない

「私も頑張った、だから君も頑張れ!」と言いたい意図ではないということは、理解してほしい。私のラディカルな生き方を真似る必要などはない。そうではなくて、やりたいことがあるなら、君の好きなようにやったらいいのでは?と言いたいのだ。逆もしかりで、そんなに苦労してまでやりたくないことなら、やめておくのもまた選択だよと。

大切なことは、人生で、「これは!」と思うことにであったとき、これは勝負に出なければならないと本能で分かるとき、そのときは、君の気持ちに正直になって、納得がいく選択をして欲しいということだ。

参考文献:『となりの億万長者』 参考記事:人生は30000日しかない


FIREという概念

FIREとは?

FIREという言葉を聞いたことがあるかな?もしかしたら君の時代には常識になっているかもしれないし、金融教育が進んでいれば、学校でも教えてくれるかもしれない。FIREを簡単にいえば、人生の早い段階で経済的に自立をして、仕事の義務から開放されるという概念だ。

多くの人は、生活のために仕事をする

多くの人が仕事をするのは、正直なところ、働かないと生活ができないからだ。人間が生きていくにはお金がかかる。お金を稼ぐには働かなければならない。だから働く。多くの人が、人生の大半の時間を、生活費のために仕事をすることに費やす。これは事実だ。

もしお金が沢山あったら?

しかし、一生働かなくても生活できるほどのお金があったら、どうだろう?そうなれば働く必要はなくなる。仕事をしてもいいが、しなくてもいい。なぜなら生活費には困っていないから。そうなれば君は働くだろうか?また君の周りのひとは働くだろうか?

お金があれば、仕事を選べる

一生働かなくてもいいほどお金があれば、少なくともやりたくない仕事をする必要はない。多くの人がやりたくもない仕事を続ける理由は、その仕事をしないと生活できないからだ。生活に困っていなければ、好きな仕事を選ぶことができるし、そもそも仕事をするか、しないかの選択肢もある。どちらでも好きな方を選べばいい。

お金がない場合は、仕事しない選択肢はない

お金がなくて、生活費を稼がないと生活できない場合は、仕事をしない選択肢はない。仕事をしないと生活ができないのだから、それは仕方ないだろう。もちろん仕事の内容は選べる。でもやりたくない仕事でも、場合によっては続けざるを得ないケースも、あるかもしれない。実際はそういうことが多いのが、世の中の現実だ。

世の中の99%以上の人は選択肢がない

経済的に自立して、もう働かなくても生活できる人が、世の中にどれくらいいるかはわからないが、ほとんどいないだろう。世の中の99%以上の人は、仕事をしないという選択肢がない。これはプレーンな事実だ。

経済的に自立すれば、生き方は本質的に自由に選べる

このように考えると、世の中の人はほとんど本質的に自由とは言えず、お金に人生を縛られていると言えるだろう。しかしもし君が人生のどこかの段階で、生活費を気にしないでも生活できるフェーズに入った場合、君は本質的に自由に生きることができるだろう。

経済的な自立とは

そもそも経済的に自立するとは、どのような状態を指すのだろうか?専門家によって色々な考え方があるが、ここでは、ざっくりと簡単に、かつ実践的に考えてみる。

例えば大人になった君の一ヶ月の生活費が30万円かかるとする。その場合、年間では30万円×12ヶ月で、360万円の生活費がかかる。例えば君の年齢が20歳になった時点を想定して、仮に100歳まで生きると仮定する。そうすると、360万円×80年で、28,800万円かかることになる。約3億円弱だ。

上記の条件で仮に20歳の時点で君の手元に3億円あった場合、君は一生働かなくても生活が可能になる。(株で資産運用する場合は、実際はこんなになくても大丈夫。また現金にはインフレのリスクもある。)

お金ではなく株で保有する

また現金ではなく、株式で金融資産を保有する方法もある。むしろこちらの方が、インフレにも強く主流の考えだ。例えば株式で年間3%の配当が手に入る場合、一億円あれば、年間300万円が入ってくることになる。ならば1億2000万円あれば、年間360万円入ってくることになり、これなら君の生活費を満たすことができる。しかもさっきの例と比べて、少ない金額で、しかも元本を切り崩さなくてよいので、半永久的に生活費を払ってもらえる。これは強い。

世間のFIREの考え

世間的に経済的に自由を達成するには、色々と考え方がある。有名どころでは4%ルールというのがあって、年間生活費が、金融資産の4%になった場合、経済的に自由とする考え方がある。これはつまり、年間生活費の25倍の金融資産を保有すれば、理論上は生涯生活費を賄える可能性が高い、という考え方に基づいている。詳しくは色々と本がでているので、興味があれば読んでみてほしい。

ちなみに私はどうか?

私は君の知っての通り、毎日シャカリキになって働いているので、経済的自由とは程遠い。ある程度自由に仕事をしているが、仕事から開放されておらず、きっと当面、身体が動くまでは働くことになりそうだ。

私がもし子どものときに、特に社会に出る前に、この概念を知っていたら、、、何か生き方が変わったかもしれない。その思いから今回のことを君に伝えたいと思った。


勉強の目的

なぜ勉強するか???

なぜ学校で勉強するかということを考えたことはあるかな?自分のため、将来のため、社会に出てから働くため、自分の選択肢を増やすため、、など色々な考え方があると思う。答える人によっても回答がそれぞれだと思う。君はどう思うかな?

私の考え

私は身も蓋もない言い方になってしまうが、率直に言えば、「お金のため」だと思う。それはあんまりだと思うかもしれないが、少し話を聞いて欲しい。

一般的になぜ勉強するかといえば、一番はよい学校に行くためだと思う。なぜよい学校に行くかといえば、学歴があれば、良い会社に就職できるからだ。なぜ良い会社に入ることを目指すのかといえば、そうすれば、良い給与を得ることができるからだ。また社会的にも信用される。

つまり なぜ勉強するのか?→いい学校に入る→いい会社に入る→高い給与を得る

という流れをみると、最終的にはお金のためと言えるのではないかと言うわけだ。

これはすごく単純化したものだし、極論と言えるかもしれないが、あながち間違っていないと思う。世間ではここまで、ズバリとは言わないし、言えない。色々それらしい理由をつけて、煙に巻こうとするが、本来は単純なものなんだ。

お金のために勉強するというと、なんだかあまりいい気持ちがしないかもしれない。でも本来お金を稼ぐことは悪いことでは決してない。むしろしっかり働いてお金を得ることは、良いことだ。そこは前提として覚えておいて欲しい。

少し付け足すと

上ではわかりやすく、「勉強するのはお金のため」と振り切ったが、少し補足すると「勉強するのは、お金と名誉のため」だと思う。

勉強して、学歴があり、有名な会社に入ったり、高度な職業に就けば、良い給料を得て、お金を得られるだけでなく、社会的にも信用される。たとえば同じ1億円を持っている人でも、一流大学を卒業して、上場企業に勤めている人と、定職につかずたまたま宝くじに当たった人をみたら、どちらの人が信用できるだろうか?やはり一流大学を卒業して、ちゃんとした会社に勤めている人なのではないか?

物事は単純に考えると見えてくる

今回はなぜ勉強するのか?→極論すれば、お金のため、というテーマをみてみたが、物事はシンプルに考えると、意外に単純なものだ。社会や大人は、なかなかそこまでズバッと言えないことも多いから、色々それらしい理由をつけたがるけど、意外に物事の本質は単純だということを覚えておいて欲しい。


複利の威力

複利という言葉の説明

複利という言葉を聞いたことはあるかな?ちょうどいい説明があったので、ここに引用してみる。

たとえば、元金(もともとのお金)が100万円あり、この100万円を金利2%(年利)で1年間預金したとすると、1年後には102万円になる。この場合、2万円は、元金に対してついた利子である。この2万円も含めて(つまり102万円を)再び金利2%で1年間預けると、1年後には104万円となるのではなく、104万400円となる。この400円は、利子である2万円についた利子である。このように、利子にもまた利子がつくことを、「複利」という。

金融広報中央委員会 より引用

実際はどうなのか?

上の文を読んでも、多分あまりピンと来ないかもしれない。104万円と104万400円なら、そんなに差がないのではないのかと。私も最初そう思った。たしかに差はあるが、誤差に近いものではないかと。

しかし複利は回を重ねるごとに力を増す。下の表を見て欲しい。これは、100万円を仮に5%で運用した場合、単利と複利で比較したものだ。最初の数年は、わずかな違いかもしれないが、回数を重ねるごとに差が開き、50年後には、トータルリターンが複利のほうが3倍以上多い。50年後の最終金額は、単利は350万円に対して、複利の場合は1150万円近くになっている。実に800万円近い差になるわけだ。これはもう誤差ではなく、決定的な差と言っても良いだろう。

複利と単利の50年比較グラフ 単利と複利の比較(元本100万円、年利5%、50年)

実生活の複利はお金

私は、複利のことを単純に教養として君に伝えたい訳では無い。実践的な内容として捉えて欲しい。実生活で複利が絡むものはお金だ。複利は味方にすれば、非常に強力な武器になるし、敵に回ると果てしなく厄介な強敵になる。味方になるとは投資をすること、敵に回すとは借金をすることだ。

複利が味方になると

複利を味方につけるとは、投資で複利を使うことだ。先ほどの例のように、100万円を5%の年利で運用すると、50年後には10倍以上になってしまう。これは非常に強力だ。しかも投資の世界では、年利5%というのは割と現実的な値だ。優良なインデックスファンドで投資をすれば、特に頭を使わず、放っておくだけで再現性高く実現できてしまう。

複利を敵にまわすと

複利を敵にまわすとは、借金をすることだ。借金をしても利子がつくが、返せないと利子に利子がついて、とんでもないことになってしまう。最終的には借りた金額の何倍ものお金に、借金が膨れ上がってしまうこともあるくらいだ。これはかなり厄介だ。絶対に避けたい事態だ。

借金というと、君には無縁のように思うかもしれない。しかし車のローンや、住宅ローンなども借金だ。これらを君が、もし利用することがあるならば、十分注意しなければならない。お金が返せなくなると、とんでもないことになるし、計画どおりに借金を返済できたとしても、最終的にはトータルの利子だけでかなりの額を払うことになるからだ。特に住宅ローンには要注意だ。

ちなみに我が家が持ち家ではなく、ずっと借家なのは、私が借金をして利子を払うのが嫌なのも理由の一つだ。

祖母の不思議な問い

ここで私が初めて複利の教育を受けた時のことを、子孫である君に伝えておく。私の母方の祖母から、小学生の夏休みにあるクイズが出題された。それはこんな内容だった。

A君とB君がいると仮定する。A君もB君も毎日夏休みの間、1ヶ月間(30日とする)お小遣いが貰える。A君は毎日1000円の決まった額が貰える。B君は最初の日は1円しかもらえないが、2日目は倍の2円もらえ、3日目はまた倍の4円もらえ、1日ごとに貰える額が倍になっていく。

A君とB君は最終的には、貰える額にどれくらいの差がでるだろうか?という内容だった。

これはたしか夏休みの最初に出題され、夏休みの間考えて、夏休みが終わる頃に答え合わせをするゲームだった。

その当時、私は小学校5年生くらいだったと思う。最初感覚的に、A君のほうがよさそうだと思った。A君は初日から1000円もらえる。当時の小学校にとって1000円は大金だ。今の君とは貨幣価値が違うからね。1000円が毎日貰えるなら、30日で3万円貰えることは、その当時の私でもすぐ暗算でわかった。これはすごいと、3万円あれば、欲しいものがかなり買えるぞと。

その反面、B君は1日ごとに倍になっても、1円、2円、4円、8円、16円とたしかに増えるものの、途中まで数えて、増えるまでだいぶかかりそうだと思った。やっぱりA君のほうがいいのではと。ロクに計算もせず思ったものだ。

しかしもしA君の方が最終的に勝つとすれば、祖母がわざわざ私にこんなことを聞くだろうか?とも心のどこかで思った。しかし当時の私はあまり深く考えて生きるタイプではなく、いつのまにか目の前の夏休みを謳歌することで、クイズのことをすっかり忘れていた。夏休みの最後の方になって思い出したように計算して、祖母の家に行った。(しかし当時の私の計算は間違いだらけだったが。。。)

複利の話のくだりがあったので、聡明な君はとっくに気づいていると思うが、やはりこのケースではB君の方が有利なのだ。これはエクセルで計算すると一瞬で導ける。実際に計算してみるとわかるが、B君の貰える額は日に日に増えていき、16日目で32,768円となり、この日の1日に貰える金額でA君の1ヶ月分の総額を超えてしまう。しかしここからが本当にエグい差がつくところで、B君が最終日(30日目)の1日でもらう金額は、536,870,912円となり、B君の1ヶ月の総額はなんと10億円を超えてしまう。ここまで圧倒的な差がつくとは私もいま改めて計算して、驚いている。

このクイズは、複利の力を教えるために祖母が出題したものだった。医師である祖母は私に、クイズを通して複利の力を教えたかったのだろう。そのことに気付いたのは、私がだいぶ大人になってからだった。

まとめ

複利の力は非常に強力であり、時間が経つにつれてその効果は増大する。特に投資の世界では、複利を味方につけることで資産を大きく増やすことが可能だ。一方で、借金においては複利が敵となり、返済が困難になることもある。複利に関する知識を深め、賢い選択をすることが重要だ。


親を超えるとき

子どもはいつか必ず親をこえていくものだ。いま君が何歳なのかは、これを書いている時点ではわからないが、この文章を読める年齢の時点で、すでにいくつかの面で私を超えているだろう。君が気づいているかどうかは、わからないが、子どもと言われる年代であっても、すでにいくつかの分野では、親をこえはじめるものだ。それを私はとても嬉しく思う。子どもに敵わないと思うことほど、嬉しいことはない。

私とすごす日常で、私の言動が一致しないことに矛盾を感じることがあるだろう。普段えらそうなことを言ったり、ここに書いたりしているのに、実際はたいしたことをしていないじゃないかと。君の思うことは正しい。実際そうなんだ!えらそうなことを言っている割に、私はたいした人間ではない。身体に悪いと思っても、甘いお菓子を食べたり、変な色のジュースを飲んだりする。カフェイン中毒と知りつつ、コーヒーばかり飲んでいるのはよく見るだろう。時には仕事をサボることもあるし、君が何か生産的なことをしようとしているのに、遊びに行こうとそそのかすこともあるだろう。そう思うとわるい親だなあ。。。

しかしそういう時こそ、君はまた私を超えつつあるときなのだ。親のアラが見えるということは、成長している証だ。親と同レベルなら、何も感じない。私のことをなんか変だなと思ったら、それはまた君がひとつ成長した証だよ。自分の成長を喜んでほしい。

人間の子どもというのは、とてもか弱い状態で生まれてくる。生まれてから数年の間は、親がいないと生き残ることは難しい。食事を用意して、おむつをかえて、着替えさせて、お風呂にいれて、あらゆる危険から守ってあげることが必要だ。でも少しずつ大きくなるにつれて、だんだん自分でできることが増え、いずれひとり立ちする。君はおそらく身の回りのことはほとんど一人でできるだろう。私に万が一のことがあろうとも、君はもう生き残れる存在なのだ。

いずれ君は私をあらゆる面で凌駕するだろう。本音を言うと、赤ちゃんの頃の君を思い出して少し寂しい気もするが、やはり嬉しさが圧倒的に大きい。子どもが成長するということは、こんなにも嬉しいものなのかと、私も日々実感させてもらっているよ。


大人はよく間違ったことを言う

大人の言うこと

もしかしたら君は、「大人の言うことは正しいこと」だと思っているかもしれない。しかしそれは間違いだと私は思う。大人もよく間違ったことを言う。もちろん私もだ。私だけでなく、学校の先生も、塾の先生も、習い事の先生も、親戚の人も、一般的に偉いと言われる大人でも間違ったことを言うのは普通だ。

間違いの2パターン

間違いの定義は難しいが、ここでは2通りを考えて欲しい。1つ目はそもそも単純にだれがどうみても間違っていること。2つ目は一般的には間違っているとまでは言えないが、「君にとっては」間違っていることだ。

1つ目は簡単だ。明らかに良くないことや、倫理的に問題があるようなことを言う大人もいる。大人なんて子どもが大きくなっただけだから、本質的にはかわらない。そもそもそんなものだ。バカにして良い訳ではないが、信用しきっては絶対にいけない

2つ目が実はやっかいな問題だ。一般的に考えれば良さそうなことだけど、君の状況と合わせると、君にとっては良くないアドバイスの場合だ。たとえば「好き嫌いしないで、なんでも食べましょう」という言葉は一見よさそうだ。しかし食物アレルギーがある子どもが、この言葉を真に受けて、アレルギーがある食材を無理に食べたらどうなるだろうか?これは最悪の場合、命に関わることになる。これは極端な例だが、一般的によさそうなことが、どんな人にも良いとは、限らないということだ。

もう一つ例を考えよう。勉強が苦手な子どもに、「もっと勉強しなさい」と言う場合だ。これは一見悪いことには思えない。しかし人には向き不向きがあるのは、事実だ。勉強が苦手な子どもや、そもそも座って文字を読むことができない子どももいる。そのような子どもに、無理に勉強させるのは、果たしてよいことだろうか?それより運動やゲームやパソコンなど、その子にとって得意なことを好きなようにやらせてあげる方が、将来的にも生き残れる能力を身に着けやすいのではないか?私はそう思う。

地獄への道は善意で敷き詰められている

そしてこのケースで非常にやっかいなのが、アドバイスをする人は、善意でいっぱいということだ。その子のためを思って言っており、決してその子どもを、ダメにしようとは思っていない。むしろなんとか救ってあげたい気持ちでいっぱいだ。しかしその子にとっては、苦手なことを無理やりやらされ、成果も上がらず、つらいことになってしまう可能性が高い。「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉は、たしかにそうなのかもしれない。

対策

大人も間違ったことを言う。そのため、どのようなこともまず自分の頭で考えてみることが大切だ。それがたとえ間違っていても、全然かまわない。とにかく自分の頭で考えることが大切だ。考える訓練を積めば、徐々に思考は洗練されていく。はじめから上手くいかなくても当たり前だ。

考えるときのヒント

考えるときのヒントをひとつ教えよう。「何故この人は、このようなことを言うのか?」と考えてみることだ。その人の立場、その人の周囲の環境、その人の身分、その人のことを考えたうえで、言ったことを見直してみると、しっくりくることがある。

たとえば、Appleの社員が、「iPhoneは最高のスマートフォンです」と言っている場合、君はどう思うだろうか?そりゃそうだろうと、思うのではないか?まさかAndroidをすすめるわけにはいかないことは、誰にでもわかるだろう。これはわかりやすい例だが、どんな場合も、多かれ、少なかれ発言には個人の事情が絡むものだ。これをポジショントークというらしい。

私の言うことも信用してはいけない

最後に、もちろん私も大人の一人だ。私がどんなに、君のことを愛していようとも、私の言うことも、書いていることも、信用しきってはいけない。必ず自分の頭で考えてみることが、とても大切だ。

私も君のためを思って、この文章を書いている。しかしそれが君にとって有益とは限らない。場合によっては毒になることもあるだろう。私はもちろん君にとって有益であるようにという「善意」でいっぱいだが、その思考がやっかいなのは、すでに説明した通りだ。

繰り返すが、このサイトに書いていることも、私が直接君に言うことも、すべて一度自分で考えて、君が自分で判断して欲しい。それが自分の人生を生きるということだと、私は思う。

私は君を、一人の人間として敬愛し、一人の人間として君の判断を尊重する。そのような父親でありたいと、私は思う。


なぜ学校に行くのか?

なぜ学校に行くのか?ということを、考えたことはあるかな?私は学校に行くことは、当たり前のことで、学生の頃は深く考えていなかった。考えるようになったのは、社会に出て仕事をするようになってからかな。「そういえばなぜ学校に行って、社会で当たり前のように働くのだろうか?」と。

『すべての教育は「洗脳」である~21世紀の脱・学校論~』という堀江貴文氏の本を読んだときに、ふと自分の中で腑に落ちるものがあった。できれば君も読んでみるといい。君の時代にはそぐわない部分もあるかもしれないが、結構おもしろいと思う。

この本を読んだ後、私なりにも考えてみた。この本にはより過激に書いているかもしれないが、言葉を選ばなければ、国のために子どもを洗脳するためというのは、当たらずとも遠からずかもしれない。国にとって、国民は重要な資源で、資源を適正に利用するには、学校で教育して洗脳するのが都合が良いわけだ。

国が国民に求める2つのこと

国が国民に求めることは、極論すると2つだと私は考えている。それは国防納税の2つだ。つまり戦争になれば他国と戦うこと(国防)と、平時は働いて税金を納めること(納税)、それが国が国民に求めることだ。そしてそれを実現するためには、学校で教育することがもっとも都合がよいわけだね。

今は(この記事を書いている時は)幸いにして、日本は戦争にはなっていないから、国防よりも、納税のほうが重要かもしれない。納税というのは、つまり、学校で勉強して社会のルールを身に着けて、その後社会に出て働いて、働いて得たお金の一部を税金として国に納めるということ。これはみんながやっていることだね。

学校と会社の構造はそっくり

社会に出て気づいたが、学校と会社というのは、ほとんど同じ仕組みだ。毎日決められた時間に行って、昼間は勉強や仕事をして、夕方から夜に帰る。学校や会社のルールを守らないと、先生や上司に怒られるし、勉強や仕事が、人よりうまくできれば褒められる。構造は同じだから、学校を卒業して社会にでても、すぐに違和感なく仕事ができるわけだ。

学校制度のこれから

そもそも学校の制度が今の形なってから、そんなに時間が経っていない。当然だが不備や課題もある。問題も多いのは事実だが、逆に学校を無しにして、いまのような教育水準や国のシステムを維持するのも大変そうだ。これからも手探りは続くのだと思う。ただ確実に以前の形態は少しずつ壊れていくだろう。

さいごに

学校に何故行くのか?というテーマを始めとして、学校というテーマはかなり大きいテーマで、なかなか一つの記事では扱えない。これからも色々な切り口で考えていきたいと思う。

今回、君に伝えたかったことは、「国が、国を上手に運用するために作ったシステムの一つが学校」ということだ。だから実はそんな大したものではなく、一つの国のシステムに過ぎないということだ。学校で何か上手く行かないことがあったり、悩んだりしても、そもそもそんなものだと捉えていれば、そう深刻になることもないだろう。そもそも人間が作り出したものは、そんなに大したものではない。大げさにとらえすぎないことが重要だ。


プログラミングを学ぶといいかも

プログラミングが義務教育に

少し前に、プログラミングが小学生でも教えられるというニュースをみた。もしかしたら君の時代では当たり前のことかもしれない。私の時代は、学校でプログラミングを学ぶということはなかった。せいぜい高校でエクセルやパワーポイントの授業が多少あったくらいだ。それすら友達のパソコンをイタズラしたりして、全く聞いていなかったが...。

私のプログラミング学習

私はパソコンが苦手な方ではないが、得意でもなかった。ネット検索やワードで文書作成くらいはできるが、プログラミングやパソコンの根本的な構造などは、からきしわからなかった。しかしプログラミングを義務教育で教えるようになったこと、そして君が生まれたことで、このままではまずいと思うようになった。将来君にプログラミングのことを聞かれて、多少は答えられるようなレベルにはなりたいと。

しかしプログラミングは独学が非常に難しい。仕事もあるし、君と遊びたいから、スクールに通う時間はさすがになかった。試しにオンラインスクールで初級向けの講座を一生懸命やってみた。多少は知識が得られたが、実用的なスキルは全く身につかなかった。知識が得られても、何かを作れるレベルではなく、なにか問題があると、そこで手が止まってしまう。プログラミングはバグにハマると、何時間も、時には何日も止まってしまう。これは結構きついものだ。プログラミングの挫折率が高いのも頷ける。

生成AIとプログラミング

しかしここで技術革新が起きた。生成AIがちょうど爆発的な発展を遂げたのだ。生成AIとプログラミングの相性は抜群だ。そもそも生成AIが元をたどればプログラムなのだから。生成AIの一つであるChatGPTが、私のプログラミングの家庭教師となってくれた。

色々試行錯誤するなかで、プログラミングを身につけるには、自分で何か作ることが近道だと思った。本には色々と知識が書いてあるが、実際に自分で必要だと思って使わないと、なかなか生きた知識として身につけることが難しい。そしてその実践の場として選んだのが、このサイトなのだ。このサイトは私が自力で作成した初めてのサイトなのだ(※実際はChatGPTに頼りきりだが)。

これ以前も仕事でサイトを立ち上げたことがあるが、それはWordPressという、プログラミングができなくてもホームページを作成できるツールを使用していた。実は君に私の経験を共有するサイトを立ち上げるアイディアは以前からあって、当初はこちらもWordPressで作成しようとしていた。

しかし敢えて、一から立ち上げる挑戦をしてみた。やってみると結構大変だ。WordPressや普段使っているwebサービスがいかに完成されたものかがわかる。そして独学ではまず挫折していただろう。ChatGPTがなければまず不可能だった。これは時代が味方してくれた。私はプログラミングを始めたタイミングが最適だったとしか言いようがない。

ChatGPTは私のプログラミングのメンターとして、非常に有能だった。くどい質問や、初歩的な質問をしても、また一回聞いたことを何度聞いても怒られない。夜中でもすぐ答えてくれる。先生としてはこれほど親身な存在はないだろう。

君もプログラミングをやってみるといいかも

君の時代は、おそらく小学校でもプログラミングを習うだろうから、抵抗なく入れるだろう。プログラミングやITの知識があると、どの分野に行っても役に立つ可能性がある。もし興味があれば踏み込んで学んでみるのもよいかもしれないね。

最強なのは、プログラミングのスキルに加えて、何かしらの専門分野を持つこと

プログラミングの技術だけでも、それだけで仕事になるだろう。しかし上記のように生成AIの台頭により、私のような素人でもプログラミングがある程度できてしまう時代に今もなっている。そして生成AIの勢いは加速する。この記事を読んでいる君の時代は、私には想像できない未来になっているだろう。

できればプログラミングの技術もある程度持ちつつ、全く他の専門分野を持ち、それらをかけ合わせることができれば、かなり希少な人材になれる。そうなれば仕事で困ることはないだろう。

まとめ

プログラミングは独学が難しいが、生成AIの登場により、学習の敷居が下がり、私のような素人でもある程度のレベルまで到達できるようになった。君の時代では、プログラミングは義務教育で学ぶことになるだろう。もし興味があれば、ぜひ挑戦してみてほしい。


人生は30000日しかない

人生の短さについて.

君の年齢で、人生の終わりについて意識することはあまりないと思う。しかし人生は長いようで、時間が経ってしまうと意外にも短く感じるものだ。私も自分が子どもだった頃を、昨日のように思い出すとまでは言わないが、そんなに前のことではないと感じる。

題の通りだが、数えると人生は約3万日しかない。3万日生きたとすると、82年1ヶ月だ。平均寿命を考えれば、おおよそ正しいといえる数字だろう。もちろんこれ以上長く生きる場合も、これより早く天寿を迎える場合もある。人間の寿命については人それぞれなのでなんとも言えない。だがおおむね健康に生きることができて、平均寿命前後まで生きた場合、人生は3万日だ。

30000という数字をみて、君は多いと思うか、少ないと思うか?私は初めてこの考え方に出会った時、すでに10000日以上を生きていた。つまり人生の1/3は終えている状態だった。もうそんなものなのかと、私は残りの人生は思ったほど長くないと感じた。

考え方の例

3万という数字は、文字では意識しづらいので、一つの例を考えてみようと思う。君は財布に3万円のお金が入っている。そして一日の寝る前に、1円財布から取り出して、貯金箱に入れることを考えてみよう。1日に1円ずつ財布からお金を取り出し、財布が空になったときが寿命だと考える。財布に残っているお金が、君の残りの日数となる

どうだろうか?そのように考えると案外人生は短いと思わないだろうか?普段は無限に続くように感じられるこの人生も、必ずいつかは終わりが来る。生まれたものが、やがて滅びるのは、この世の法則であり、生物がもつ宿業と言える。

限りがある時間を生きる

人生の時間が限られていることを認識すると、生き方が変わってくるかもしれない。人生には多くの可能性があるが、時間的制約からあらゆる可能性を試すことはできない。自分にあっていそうなものに絞って、試行せざるを得ない面もあるだろう。

また嫌なことや、やりたくないことをやっている時間はない。君の人生は、君がやりたいこと、時間を使いたいものに、時間を割くべきだ。何も遠慮はいらない。自分がやりたいことをやって、楽しい時間を、自分が好きな人間と過ごすことが、もっとも重要なことだ。

もちろん生きるためには、すべての不快な事柄を避けることはできないかもしれないが、根本的には、上に書いたような考え方を大事にして欲しい。なにか迷う時、人生の岐路に立った時、基本的には自分の人生が充実して、心地よいと思える方向の方が、君にとっては正しい道になるかもしれない。(それは私が保証できるものではないけれど。)

やりたいことをやる

まだ未来が長い君には、理屈は理解できても、腹落ちする内容ではないかもしれないが、できれば大人になったときに、もう一度思い出して欲しい。人生には限りがある。やりたいことをやって、会いたい人には会いに行って、大切な人との充実した時間を、大切にして生きて欲しい。


お金を稼ぐ方法

お金を稼ぐ方法

お金を稼ぐと聞いて思い浮かべるイメージはどのようなものだろう?どこかの会社で働いて、給与をもらうことや、自分で仕事を作って働くというイメージだろうか?実は大人になってお金を稼いで、生計を立てるには、いくつかのパターンがある。

大きく分けると

  • ①会社で働いて、その対価として、給料をもらう。
  • ②自分で事業をおこして、自分が働いてお金を稼ぐ。
  • ③会社を作って、そこで人を雇い、他の人に働いてもらう。
  • ④金融資産を保有して、お金に働いてもらう。

と分けられる。以下で詳しくみていこう。

働き方の4パターン

①会社で働いて、その対価として、給料をもらう。

これが一番イメージしやすいかもしれない。会社や国などの組織に所属して、そこで働くことで、働いた分の見返りとして、給与としてお金をもらうパターンだ。アルバイトなどもこれに含まれるね。実際に学校を卒業すると、多くの人はこのタイプの働き方を選ぶ。一番メジャーな方法だ。

働いてお金をもらうメリットは、たとえば会社の業績が思わしくない時期も、比較的安定して給与をもらえることだ。昨月は30万円もらえたけど、今月は暇だったから10万円、ということは基本的にない。安定して給与が見込める分、生活が安定しやすい。

またこの形態では、「労働者」として保護を受けられる。特に正規労働者の場合は、非常に強力に国から保護される。実は労働者の権利は思っている以上に強い。労働者を守るように国は制度として設計しているからだ。働き手がいなくなったら、国としては困るからね。

しかしデメリットもある。たとえば君が同僚よりも何倍も功績を上げたとしても、給与が何倍にもなることはないだろう。これは構造的な問題であるが、個人の成果が、給与などの評価に反映しにくいのだ。できる人が、できない人をある程度支えることで、組織として成り立たせる側面があることが原因だろう。

また比較的安定しているといっても、会社が潰れてしまったら、仕事を失ってしまう。もちろん失業保険などの制度もあるが、一定以上の年齢でこのようなことになると、転職は難しいかもしれない。会社に勤めるということは、人生を会社に預けることと等しい。会社と運命をともにする覚悟をしなければならないといえるだろう。

②自分で事業をおこして、自分が働いてお金を稼ぐ。

2つ目は自分で事業をつくって、そこで自分が主になって働くパターンだ。街の個人商店や、フリーランスで仕事を請け負う場合もこちらになる。個人事業で生計を立てる人は、①ほど多くはないが、街を見回してみると意外にいることに気づくだろう。

このパターンのメリットは、もし事業がうまく行けば、利益を総取りできることだ。他の人をフォローする必要もない。自分が成果を出せれば、いくらでもお金は増えていく。また仕事の時間や量をコントロールしやすいという点も意外メリットとなる。

デメリットは、メリットの裏返しで、もし事業がうまく行かないと、お金を稼ぐことができない。事業によっては固定費がかかる場合は赤字になって、むしろ借金を背負う可能性もある。安定性とは程遠い働き方になる。たとえば100万円売上がある月に喜んでいたら、翌月は10万円に減ってしまう、ということもあるかもしれない。

③会社を作って、そこで人を雇い、他の人に働いてもらう。

3つ目は②の発展型で、仕事が軌道に乗った場合にできるパターンだ。人を雇うことで、人に働いてもらい、会社に利益をもたらしてもらう。働いてくれた人には給与を払い、残ったお金を自分のものにするというスタイルだ。この場合、働いてくれる人は①のパターンになるのはわかるね。

これがうまくいくと、君は他の人の仕事を管理するだけで、お金が稼げるようになる。実務は雇った人に行ってもらい、君はその調整を少しするだけでいいから、コストパフォーマンスがよい。また会社を大きくすれば、収入も青天井になり、いくらでも上を狙える。

しかし人を雇い、会社を経営することは、もちろんリスクを伴う。業績が悪くても、社員に給与は支払わなければならないし、会社を潰してしまうと、社員にも取引先にも迷惑をかけて、社会的な信用も失う。チャンスも大きいが、リスクや責任もその分大きくなるだろう。

実は③になると、①、②のパターンとはフェーズが異なる。①、②は君が実際に動いて仕事をしなければならなかったが、③になると人に働いてもらうという点で実は大きく異なるのだ。自分自身が働く以上、受けられる仕事の量や規模に制限があるが、人を雇って多くの人に協力して貰えば、仕事量や規模も大きくすることが可能だ。また扱えるお金も大きくなる。その分、チャンスもリスクも増えるということだ。

④金融資産を保有して、お金に働いてもらう。

これは株式や債券を保有して、その配当金をもらうことで、お金を得る方法だ。株式や、株式の詰め合わせパックである、投資信託、ETFを保有すると、配当金や分配金という名目で、保有する金融資産の何%かをもらうことができる。例えば100万円の金融資産を君が持っていて、配当が年間3%と仮定すると、年間3万円が貰えるということだ。(厳密に言えば税金が引かれる)

しかもこれは金融資産を持っているだけで、何もしなくていい。働かなくても貰えるお金なので、いわゆる「不労所得」と言われるものだ。

この④のタイプは最終段階で、君が働くのでもなく、人を雇って働いてもらうのでもなく、お金に働いてもらうというものだ。資本主義の究極は、お金がお金を生むという世界だ。

4パターンを俯瞰すると

以上の4パターンをみてきたが、これらはこのようにも分類できる。

  • ①会社で働いて、その対価として、給料をもらう。→自分が働く
  • ②自分で事業をおこして、自分が働いてお金を稼ぐ。→自分が働く
  • ③会社を作って、そこで人を雇い、他の人に働いてもらう。→他の人に働いてもらう
  • ④金融資産を保有する。→お金に働いてもらう。

お金の稼ぎ方を極論すれば、自分が働くか、他の人に働いてもらうか、お金に働いてもらう、の3つに分類できる。①と②はこの観点でみればほぼ同じだ。

世の中を見回してみると、働いている大人はいずれかに分類できることがわかると思う。学校の先生は①だし、一流企業の社員も①だ。上場企業の創業者は③+④だし、資産家は④だろう。医師や弁護士などの専門職も①が多いかな。芸能人は①や②のパターンが多いだろう。

上にもあるように、①だけというのではなく、いくつかのパターンにまたがるのも普通だ。専門職で①の形で高給を得ながら資産形成をしている人は、①+④になる。お金には困っていないから主に④なんだけど趣味で会社を経営してれば、④+③になる。

ちなみに私は個人事業を営みつつ、他の企業で働いて給与も貰っており、また少しだが資産運用も併用しているので、①+②+④となる。主に自分がシャカリキになって働きつつ、資産形成を目指すパターンだ。


サラリーマンの構造

働くということ

大人になって働くというと、どういうイメージがあるかな。君がどうかはわからないが、一般的には会社に行って、仕事をして、給料をもらうというイメージがあるのではないかと思う。社会で一番数が多い働く形態としては、いわゆるサラリーマンという働き方だ。

サラリーマンは、名前の通りサラリー=給与、をもらって働く人ということだ。会社や国などの組織に所属し、そこで多くの人が集まって、一緒に働くという構造だ。

ところで会社で働くことは、学校とよく似ていることに気づくかもしれない。これは国がわざと行っていることだ。学校でうまくやれるひとは、会社でもきっと上手くやれる。色々な理由があるが、会社に所属して国民に働いてもらう方が国としては都合が良いのだ。

サラリーマンの問題

ところで会社には色々な人が集まる。仕事ができる人もいれば、あまりできない人もいる。仕事にやる気がある人もいれば、やる気がない人もいる。色々な人が集まっているので、ある意味当然だ。これも学校と同じだね。

そしてここにサラリーマンの問題がある。要するにデキる人や頑張る人が、デキない人や頑張らない人を支えなければならず、損な役回りになりやすいということだ。これが組織で働く最大の問題点だと私は思う。

頑張る人には給料をたくさんあげて、頑張らない人には、給与を減らせばいいじゃないかと思うかもしれない。それはそのとおりだ。たしかにそういう会社もある。しかし物事は非常に複雑で、なかなか単純にいかないのだ。給与で差をつけることは確かに可能だが、実際は、仕事の成果を正確に給与に反映するのは難しい。多少増えたくらいでは割に合わないことが多いのだ。これには日本の雇用形態や、労働者の権利が複雑に絡み合い、なかなか一言では説明できない。

君に伝えてたいこと

この記事で君に伝えたい内容は、要するに、できる人はサラリーマンの形態では損をしたり、割に合わないと感じることが多いかもしれないということだ。もし君がこのような形で働くことを嫌うのであれば、自分で事業を起こしたり、フリーランスで仕事を請け負ったり、評価がシビアな外資系企業で働くという選択もあるかもしれない。働き方は君が好きなように選ぶといい。

ちなみに私は?

私は組織で働いていたこともあるし、独立して自分で仕事を行いつつも、一部、人の会社で働くことも併行している。私は組織でがっつり働ける人間ではないから、フリーである程度、自由に仕事ができる形態の方が向いているから、このようにしている。

私の組織での経験でいうと、キャリアの最初は他の人にフォローしてもらったこともあるし、ある程度になると、フォローする側に回ることもあった。フォローする側が多くなると、割に合わないというか、損をしている気持ちになったこともある。私の時代は、年功序列がまだ根強かったから、私より働かなくても給与の高い上司をみると、さすがに微妙な気分になった。

色々変遷はあったが、私は独立の道を選んだ。こちらもたしかに大変だが、まあ悪いことばかりではない。時間に融通がきいたから、幼少期の君と多くの時間を過ごせたからね。それが私にとっては一番の宝物だよ。